2022.05.17(火)
2022.04.17(日)
筑土神社
つくどじんじゃ
東京都千代田区九段下
祭神:天津彦邇々杵尊
配祀:平将門公・菅原道真公
天慶3年(940年)、江戸の上平川村津久戸(現千代田区大手町)に藤原秀郷によって討たれた平将門の首を祀り、津久戸神社として創建された。
江戸城筑城後の文明10年(1478年)に太田道灌によって社殿が造営され、太田家、江戸城の守護として祀られた。天文21年(1552年)には田安郷に遷され、その後は二度の江戸城拡張により現在のJR飯田橋駅付近、新宿区筑土八幡町へと移転を続け筑土明神となった。
明治に入り天津彦邇々杵尊を勧請、主祭神とし筑土神社と改称。昭和20年(1954年)、戦火により社殿が焼失し千代田区富士見へと遷されたが、学校建設のため再び遷されることとなり、現在の地へと落ち着いた。
社宝として将門の首桶、肖像画、木造などが伝えられていたが、昭和20年の戦火により社殿とともに焼失してしまった。



つくどじんじゃ
東京都千代田区九段下
祭神:天津彦邇々杵尊
配祀:平将門公・菅原道真公
天慶3年(940年)、江戸の上平川村津久戸(現千代田区大手町)に藤原秀郷によって討たれた平将門の首を祀り、津久戸神社として創建された。
江戸城筑城後の文明10年(1478年)に太田道灌によって社殿が造営され、太田家、江戸城の守護として祀られた。天文21年(1552年)には田安郷に遷され、その後は二度の江戸城拡張により現在のJR飯田橋駅付近、新宿区筑土八幡町へと移転を続け筑土明神となった。
明治に入り天津彦邇々杵尊を勧請、主祭神とし筑土神社と改称。昭和20年(1954年)、戦火により社殿が焼失し千代田区富士見へと遷されたが、学校建設のため再び遷されることとなり、現在の地へと落ち着いた。
社宝として将門の首桶、肖像画、木造などが伝えられていたが、昭和20年の戦火により社殿とともに焼失してしまった。



tag : 東京_千代田区
2022.02.19(土)
2022.01.29(土)
兜神社
かぶとじんじゃ
東京都中央区日本橋兜町
祭神:倉稲魂命
東京証券取引所の北側に位置する小さな神社。江戸時代の地図には鎧稲荷と兜塚が描かれており、この時代には鎮守として信仰を集めていた。
明治4年(1871年)、三井物産の前身にあたる東京商社の移転に伴い鎧稲荷と兜塚は鎧の渡しと兜橋の中間に遷された。このさい兜塚として祀られていた源義家の御魂を社を創建して祀り、鎧稲荷も合祀され兜神社となった。
明治7年(1847年)祭神が変更され、源義家の祭祀を廃止、当地の地主であった三井家の信仰していた三囲稲荷神社(墨田区向島)の境内摂社より大国主命と事代主命を勧請し合祀した。
昭和2年(1927年)に現在地に遷座、昭和46年(1971年)に高速道路の建設に伴い旧社殿を解体、現在の社殿が造営された。
兜岩の由来は諸説あり、源義家が奥州征伐の外線の際、兜を埋め塚となした、源義家が岩に兜を掛けて戦勝祈願をしたため兜岩となった、藤原秀郷が平将門の兜を埋めて供養した、との説がある。




かぶとじんじゃ
東京都中央区日本橋兜町
祭神:倉稲魂命
東京証券取引所の北側に位置する小さな神社。江戸時代の地図には鎧稲荷と兜塚が描かれており、この時代には鎮守として信仰を集めていた。
明治4年(1871年)、三井物産の前身にあたる東京商社の移転に伴い鎧稲荷と兜塚は鎧の渡しと兜橋の中間に遷された。このさい兜塚として祀られていた源義家の御魂を社を創建して祀り、鎧稲荷も合祀され兜神社となった。
明治7年(1847年)祭神が変更され、源義家の祭祀を廃止、当地の地主であった三井家の信仰していた三囲稲荷神社(墨田区向島)の境内摂社より大国主命と事代主命を勧請し合祀した。
昭和2年(1927年)に現在地に遷座、昭和46年(1971年)に高速道路の建設に伴い旧社殿を解体、現在の社殿が造営された。
兜岩の由来は諸説あり、源義家が奥州征伐の外線の際、兜を埋め塚となした、源義家が岩に兜を掛けて戦勝祈願をしたため兜岩となった、藤原秀郷が平将門の兜を埋めて供養した、との説がある。




2022.01.24(月)
将門塚
しょうもんづか・まさかどづか
東京都千代田区大手町
藤原秀郷によって討たれ京都の七条河原で晒し首にされていたが、胴体を求めて東国に飛んで行き、数カ所に落ちたとされれ、この首塚もその地のうちの一つであるとされる。
将門の首が収められていたといわれている首桶が筑土神社(現千代田区九段下)の御神体として祀られていたが、昭和20年の戦火により焼失してしまった。
関東大震災ののち、復興計画として大蔵省の仮庁舎の建設が始まったが、工事関係者や大蔵省役人の怪我や病気、死者が多数出たことにより将門の祟りとのうわさが立ち、仮庁舎は取り壊され昭和2年に供養碑が建てられた。戦後GHQの区画整理により再度碑の取り壊しをしようとしたさい、またしても工事関係者の事故死や怪我人が出たため、取り壊しは中止となった。
高層ビル群に取り囲まれひっそりとした雰囲気であったが、令和の改修により開けた空間になった。



しょうもんづか・まさかどづか
東京都千代田区大手町
藤原秀郷によって討たれ京都の七条河原で晒し首にされていたが、胴体を求めて東国に飛んで行き、数カ所に落ちたとされれ、この首塚もその地のうちの一つであるとされる。
将門の首が収められていたといわれている首桶が筑土神社(現千代田区九段下)の御神体として祀られていたが、昭和20年の戦火により焼失してしまった。
関東大震災ののち、復興計画として大蔵省の仮庁舎の建設が始まったが、工事関係者や大蔵省役人の怪我や病気、死者が多数出たことにより将門の祟りとのうわさが立ち、仮庁舎は取り壊され昭和2年に供養碑が建てられた。戦後GHQの区画整理により再度碑の取り壊しをしようとしたさい、またしても工事関係者の事故死や怪我人が出たため、取り壊しは中止となった。
高層ビル群に取り囲まれひっそりとした雰囲気であったが、令和の改修により開けた空間になった。


